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人生朝露

人生朝露

アーシュラ・K・ル=グウィンと荘子。

荘子です。
荘子です。

今日は、当然の荘子読み、
アーシュラ・K・ル・グイン(1929~)。
アメリカの幻想小説界の大御所、「西の善き魔女"The Good Witch of the West"」・アーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula K. Le Guin 1929~)であります。簡単に言うと、彼女の存在がなければ、『ハリー・ポッターシリーズ』は生まれず、『ドラゴン・クエストシリーズ』の展開も存在し得なかったであろうという巨人です。

参照:ドラゴンクエストIII そして伝説へ...~エンディング(FC版)
http://www.youtube.com/watch?v=00rdzq2g6Qk

『ファンタジーと言葉』アーシュラ・K・ル・グイン著。
≪わたくしが高く評価し、敬愛している大叔母あるいは祖母のような本が二冊ある。思慮深く、穏やかでありながら、時として謎めいた助言をしてくれるその本に私が頼るのは、判断に迷ったときだ。一冊はわたしに事実を教えてくれるが、それは一風変わった種類の事実である。もう一冊は事実を教える本ではない。『易経』別名「変化の本」は、事実などよりはるかに長生きをした、人の目に見えないものを見ることのできる長老で、あまりにも昔の祖先なので、わたしたちとは違う言葉を話す。この大叔母の助言はぎょっとするほど明快なこともあり、まったくわけがわからないこともある。「川を渡る小ギツネはしっぽを濡らす」。それとわからぬほどの微笑を浮かべながら大叔母は言う。あるいは「竜が野に姿を現す」とか「筋だらけの干し肉を噛む」などと。このような助言をもらったら、引きこもって時間をかけてこれについて考えなければならない。(『ファンタジーと言葉』「現実にそこにはないもの -「ファンタジーの本」とJ.L.ボルヘス」アーシュラ・K・ル・グイン著 青木由紀子訳 岩波書店刊)≫

“Lao Tzu: Tao Te Ching”(Ursula K. Le Guin  1998)。
SF作家でもあり、ファンタジー作家でもある彼女は、幾度となく中国の思想、特に道家思想について言及しております。それだけにとどまらず、1998年には『老子道徳経(Tao Te Ching)』の英訳も手がけております。

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende 1929~1995)。
場所は違えど、彼女と同い年のドイツの児童文学者・ミヒャエル・エンデ(Michael Ende 1929~1995)も、『老子』『荘子』『易経』の読書体験を告白していますが、ル=グウィンの読書歴は、不思議なほどエンデのそれと一致します。ボルヘスと中国古典とを重ねる手法まで同じです。

参照:ミヒャエル・エンデと胡蝶の夢。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5124/

また、
『天のろくろ』(The Lathe of Heaven 1971)。
彼女の同級生であり、友人でもあるフィリップ・K・ディックの作品群と対比される『天のろくろ(The Lathe of Heaven)』は、『荘子』の「庚桑楚 第二十三」の「天鈞」の意訳でして、作品自体も各章の初めに『荘子』や『老子』の言葉を引用して、物語の道しるべとしています。

Zhuangzi
『知止乎其所不能知、至矣。若有不即是者、天鈞敗之。』(『荘子』庚桑楚 第二十三)
→其の知の能わざる所に止まるは、至れり。若し是に即(つ)かざる者有れば、天鈞之を敗る。
→“To let understanding stop at what cannot be understood is a high attainment. Those who cannot do it will be destroyed on the lathe of heaven.”

・・・この「天鈞」という単語は、「アベノミクス(笑)」を信頼するような日本人には理解されないでしょうが、荘子の斉物論篇の「朝三暮四」というお話にも出てくるもので、本来ならば「自然の秩序・均衡・バランス」といった意味あいで解釈されます。イギリスの科学者にして中国古典の研究家・ジョセフ・ニーダムは、「天鈞」を「天のろくろ」とするのは、誤訳ではないかと指摘しておりまして、これはル=グウィン本人も認めています。

参照:Bill Moyers interview with Ursula K. LeGuin about "Lathe of Heaven"
https://www.youtube.com/watch?v=O1bZe7bdXMw
↑開始後7:00~あたりから。道家思想(Daoism)と作品の関係について触れています。

参照:荘子と『変身』。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5105/
ジョセフ・ニーダムは、当ブログでは外せません。

『ゲド戦記 影との戦い』(A Wizard of Earthsea 1968)。
まず、アーシュラ・K・ル=グウィンの作品に明確に見られるものとして、ユング心理学の影響が挙げられます。それは、彼女の代表作、『ゲド戦記 影との戦い』が、ユング心理学の元型(archetype)のうちの一つ「影」をなぞっていて、日本では、河合隼雄さんがその点を指摘しつつ、紹介したという経緯があります。『影との戦い』ではただユングの元型以前に、荘子の要素が見られます。

荘子 Zhuangzi。
『甚矣子之難悟也。人有畏影惡跡而去之走者、舉足愈數而跡愈多、走愈疾而影不離身、自以為尚遲、疾走不休、絶力而死。不知處陰以休影、處靜以息跡、愚亦甚矣。』(『荘子』 漁父 第三十一)
→ある人が自分の影をこわがり、自分のあしあとのつくのをいやがった。影をすててしまいたい、足あとをすてたい、そこからにげたいと思って、一生懸命ににげた。足をあげて走るにしたがって足あとができてゆく。いくら走っても影は身体から離れない。そこで思うのには、まだこれでは走り方がおそいのだろうと。そこでますます急いで走った。休まずに走った。とうとう力尽きて死んでしまった。この人は馬鹿な人だ。日陰におって自分の影をなくしたらいいだろう。静かにしておれば足あともできていかないだろう。(現代語訳は湯川秀樹著『本の中の世界』「荘子」より)

参照:湯川秀樹と渾沌。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5118/

また、河合隼雄さんも言っていますが、ル=グウィンのご両親は、ネイティヴ・アメリカンの研究者で、ユングの思想を通してのみならず、彼女の作品にはご両親の研究の影響が色濃く存在します。

参照:Wikipedia イシ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B7

C.G.ユング
≪オチウェイ・ビアノは「見てごらん、白人がいかに残酷に見えることか」といい、「彼らの唇は薄く、鼻は鋭く、その顔は深いしわでゆがんでいる。眼は硬直して見つめており、白人たちはいつもなにかを求めている。何を求めているのだろう。白人たちはいつもなにかを欲望している。いつも落ち着かず、じっとしていない。われわれインディアンには、彼らの欲しがっているものが分からない。われわれは彼ら白人を理解しない。彼らは気が狂っているのだと思う」といった。どうして白人たちがすべて狂気なのか、私は尋ねた。「彼らは頭で考えるといっている」と、彼は答えた。私は驚いて、「もちろんそうだ。君たちインディアンは何で考えるのか」と反問した。「ここで考える」と彼は心臓を指した。(『ユング自伝2』「旅」より))≫

参照:ユングと自然。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5150/

ユングの思想において、ネイティヴ・アメリカンの教えというのはもともと重要な位置を占めています。たとえば、ル=グウィンの作品にジョージ・ルーカスの師、ジョセフ・キャンベルの著作との一致を見る人もいるはずです。

Wikipedia:ジョーゼフ・キャンベル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB

もう一つが、2000年に出版された『言の葉の樹(The Telling)』。
ル=グウィンは、明確にその意図を述べています。
『言の葉の樹』(The Telling  2000)。
≪例をお目にかけましょう。わたしが最近書いた本『言の葉の樹』です。たいていのわたしの物語と違って、これは本当にアイディアと呼べるもの--わたしが学んだ一つの事実から生まれた物語です。わたしはこれまでずっと、道家思想という中国の哲学に興味を持ってきました。道教と呼ばれる宗教について--これは非常に複雑な要素を持つ、古代からの民間宗教で、二千年の間、中国文化の主要な要素だったものです--やっと少しばかり学んだと思った時、わたしはそれが毛沢東によって弾圧され、ほぼ完全に姿を消したとういことを知りました。たった一世代の間に、たった一人の精神病質の圧制者が、二千年にわたって続いてきた伝統を破壊したのです。わたしが生きている間に。それなのにわたしはそんなことを一つも知りませんでした。
 この事件の大きさと、それに劣らぬわたしの無知の大きさに呆然としました。考え込まざるを得ませんでした。わたしはフィクションという形でものを考えますから、そのうちのことについて物語を書かずにはいられなくなったのです。でも、どうやって中国について小説を書くことができるでしょう。経験の不足は致命的なものになるはずです。それでは、想像上の世界を舞台に政治活動として意図的にある宗教が絶滅させられるというのはどうでしょう--これに神権政治による政治的自由の抑圧を対比させるというのは。よろしい。テーマが決まりました。そう呼びたければアイディアと言っても結構です。(上記『ファンタジーと言葉』より≫

『言の葉の樹』は、言語についての思考が荘子まんまでして、文化大革命の時代の道教への弾圧をイメージして描かれています。東洋思想のブームが起こって、アメリカの、特に若者達に老荘思想が理解されることになったのは第二次世界大戦後のこと。まぁ、まるで根絶されたかのような書き方をしていますが、二千年の間に何度も虐げられてきたこの思想は、一時期の抑圧で消えてなくなるほどまでに脆弱というわけでもないと思います。

今日はこの辺で。


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